単元8 地上を歩まれた神の子2
第三課「安息日の主」
安息日の主
聖書箇所:マタイ12:1-14
主題:主イエスは、安息日の主である。
暗唱聖句:マタイ12:8
【マタイ12:1-2】
「そのころ」、安息日になったわけです。といっても、安息日は毎週土曜日に来るわけですので、決して珍しいわけではありません。「そのころ」と言うのは、11章の最後のころと言うことです。つまり、イエス様が安らぎであるとかについて語られたころと言うことですね。
今日の箇所は、イエス様が伝える真の安息日の意味と、パリサイ人が行っている安息日とを対比しながら読むとよいと思います。
当時のユダヤの世界では、おなかがすいたときには、他人の畑の麦を食べてもよかったのです(申命記23:25ご参照)今の日本だとアウトですが、そのときはOKだったのです。問題は、この行為が「仕事」であり、安息日に行ってはいけないとパリサイ人が主張したことにあります。
ここではあえて「空腹(ひもじく)」であることが語られていますが、空腹程度で、安息日の規定に勝る理由にはなりません。それをしないと死ぬと言うのであれば別ですが。ここでは、後に、ダビデの話が出てきますが、それに対する布石をおいていたと見ることができるのではないでしょうか。
【マタイ12:3-8】
ここで、ダビデの話が出てきます(1サムエル21:1-6)。このダビデの出来事は安息日に起こったとされています(レビ24:8ご参照)。
ダビデがしたから、イエス様もしてよいのだと言う議論ではなく、イエス様はソロモン(ダビデの子)よりも優れたもの(マタイ12:42)だからと見るべきでしょう。
5、6節にはさらに直接的に自分の立場を明らかにされながら論じていますね。
弟子たちは、律法学者の規定を破りました。ただ、イエス様の権威のもとで行われたことです。
「(なぜなら)人の子は安息日の主」だからです。
イエス様は、安息日という規定よりも上にあり、安息日であっても主なのです。
【マタイ12:9-12】
ここで、 片手のなえた人が出てきます。当時の規定によれば、生命の危機に瀕している人を助けることは安息日でも大丈夫だったようです。ですが、手が動かない程度であれば、生命の危機でもないので治すことは仕事になるとされていたようですね。
ここで、一つのたとえ話を出しているようにも見える「動物を助けるか否か」という話題が出てきます。たとえ話と言うよりは、当時、動物に対してどのように取り扱ったのかと言うことが大切になってきます。
動物が穴に落ち込んだときにどのような対処をするべきか、議論がなされていました。助け出していいという者、登るのを手助けするのであれば問題ないというも者、餌を与えるだけであれば大丈夫という者。ですが、結論としては「動物が苦しまないようにすることはそれらの規則に勝る」と言うことだったようです。
であるならば、当然片手がなえて苦しんでいる人がいて、その人が苦しまないようにすることについては問題ない。。。はずなのですが、パリサイ人はそうできなかったのです。
イエス様は言います。「動物より人のほうが大事でしょ?」と。当たり前のことを言っているだけなんですけれどね。