単元7 地上を歩まれた神の子
第三課「荒野の誘惑」

荒野の誘惑
聖書箇所:マタイ4:1-11
主題:神の言葉によって勝利する
暗唱聖句:マタイ4:4

悪魔や、サタンと言うことについて少し確認しておきましょう。

日本において、神の存在を信じられないのと同じように、悪魔の存在についても信じられていません。ですが、聖書では明らかに「悪魔」の存在について語られています。
イザヤ14:12によると、元々は御使いであったものが堕落して神から離反した存在とされています。
元々は、御使いなのです。だから、悪魔は強いのです。普通の人間が本来かなわない相手です。

ですが、イエス様が相手では話が違うと言うのが今日の箇所です。

1節を見ると「悪魔の試みを受けるため」にあえて荒野に向かっています。
そのイエス様に対し、悪魔は巧妙に誘惑してきますが、最終的にはこの誘惑自体もイエス様の目的に利用されてしまうのです。

まずイエス様は四十日四十夜断食をします。
この断食が、食物を一切絶つ断食なのか、一部を絶つ断食なのかは分かりません。
ですが、本当におなかがすいてしまう状況に陥ってしまったことは間違いないでしょう。
いわゆる、おなかと背中がくっついたと言う状況でしょうか。

この状況のイエス様に対し、悪魔は巧妙に誘惑してきます。
「もし(「もし」は新改訳では訳されていませんが、原語には入っています)、あなたが神の子なら、石をパンに変えることくらいたやすいでしょ?」と。
奇跡を行うこと自体が悪いことではないんです。ですが、何が一番大切なことかということがここで語られているのではないでしょうか。
肉体的な欲求を満たすことも、もちろん必要なことでしょう。ですが、それによって、神様が第一と言う状態から離れるのでは本末転倒です。また、神様に仕えていくと言うことはそれなりに、肉体的には満たされない状態が強いられることが示唆されているのかもしれません。
また、マタイの福音書がユダヤ人に向けてかかれたものであると言う前提に立つのであれば、この世的なメシヤを待望していたユダヤ人に対して、イエス様は、この世的なメシヤではないということを伝えたかったと言えるかもしれません。

次のシーンです。
神殿の頂や、山にいった話ですが、文字通りの出来事であるのか、イエス様の幻や、心の中での戦いかははっきり分かりません。後者なのかもしれません。
と言うのも、どの山の上からも、この世のもの全てを見るというのは不可能と思われるからです。
なお、文字通りでなくても、さほど問題は生じないことを確認しておく必要があります。
エゼキエル書8:1-3を読んでみてください。エゼキエル書は、個人的には内容がイメージしにくくて読みにくいと言う印象を持ってしまっています。この箇所もぱっと読んだだけでは分かりにくいかもしれません。ただ、内容として「幻の中でエルサレムの神殿に向かった」ということが読み取れるのではないでしょうか。

さて、神様を試みる行為というのは、どんな意味合いがあるのでしょうか。
今回の場所であれば、実際に神様に助けてもらったほうが説得力があるようにも思えます。
ですが、この場で神様を試みると言うのは、イスラエル人が荒野で神様を試みていることと同じレベルになってしまいます。(出エジプト記17章など)
イエス様と父なる神の関係は、「信頼関係」であって「試さないといけない関係」ではなかったのです。

8節から10節の誘惑については、背景をよく知る必要があると思います。
イスラエル人は、何度も何度も、その場限りの政治的、経済的な欲求のため、神にのみ目を向けるべきであると言うことを忘れてしまっていました。
「神様を無視するのであれば、いろいろな利益があなた方にありますよ」とのそそのかしに何度もイスラエル人は陥ります。ですが、イエス様は違っていたと言うことです。

なお、イエス様が空腹であった話をしましたが、11節には「御使いたちが・・・仕えた」とあります。悪魔からの誘惑に御使いの助けを求めたのではなく、悪魔が去った後の適切なときに御使いがイエス様のところに向かいます。「仕えた」とは、特別に食事に関することを意味するので、イエス様は食事をされたのではないかと思われます。